日本のゲーム機産業の発展につにてえ
要旨:21世紀初頭現在の主なハードメーカーは、任天堂とソニー・インタラクティブエンタテインメント(旧称:ソニー・コンピュータエンタテインメント)、マイクロソフトの3社である。セガ(後のセガゲームス)も長年独自のハードを販売してきたが、ドリームキャストを最後にゲーム機事業から撤退した。NECホームエレクトロニクスも独自のハードで一時はセガをも凌ぐ勢力を市場で見せていたが、PC-FXを最後に撤退し、会社も解散の憂き目にあっている。初期の数年間はエポック社も主要3社に名を連ねていたが、少なくともトップシェアだったカセットビジョンについては、ファミコン以降との直接的なゲーム機競争(競合)の関係を否定している。
キーワード:ゲーム機 発展
一、はじめに((表格居中;表内文字:五号、居中、1.5倍行距)
1990年代中期
1991年、任天堂はソニーと共同でSFC用CD-ROMの開発を開始、同時にソニーもCD-ROM一体型SFC互換機の発売を発表した。その名称は「PlayStation」。しかし次第に両社の意見が合わなくなり、任天堂のフィリップスとの突然の提携発表という一方的な破棄によって共同開発は中止された。
ソニー側はこのままゲーム機から引き上げずにソニーの関連会社としてSCEを発足、1994年に32bit機であるPlayStation (PS) を発売した。前述の任天堂との共同開発版と名称が同じだが、関連性はない。ほぼ同時期にセガも32bit機セガサターン (SS) を発売した。また、北米で高い市場シェアを誇った16bitゲーム機のメガドライブをPS、SSと同じ32bit機にパワーアップさせる周辺機器スーパー32Xをセガサターン発売後に日本でも発売した。また、この頃には後述のように他にも多数のゲーム機が近い時期に相次いで登場している。そんな中、SCE宣伝部長佐伯雅司の考案したPSとSSを中心とする「次世代ゲーム機戦争」という構図がメディアで取りあげられるようになった。発売前後の1994年ごろの雑誌ではPSとSSのほか3DO、PC-FX、(後の)N64、場合によってはバーチャルボーイなども巻き込む形で盛り上がりを見せはじめていた。しかし始まってみれば目論見通りPSとSSの2機種に人気が集中し、両者の初期のシェア争いは熾烈を極め、雑誌等のメディアでも次世代機競争としてPS対SSの構図が注目を集める形になっていった(なお、ゲーム機の「世代」という概念はその後も機種を問わず広く用いられている)。32XはSSとPSが普及したことで短期間で生産を中止した。
PSとSSは共に32bitCPUでCD-ROMドライブを持っていたが、PSは3Dに特化したハード構成で、SSは2D性能に秀でていた。PSはこの大容量と3D性能の高さを併せ持っていたことが評価され、『鉄拳』、『バイオハザード』などのヒット作が続々とリリースされた。1996年にスクウェア(当時)がFFシリーズ初の3DRPGである『ファイナルファンタジーVII』 (FFVII) をPlayStation用ソフトとして発売することを発表すると販売台数が飛躍的に伸びていき、セガサターンに大差をつけた。SFCのカセットが当時10,000円前後と高価格化していた中、PSはソフトの価格を平均6,000円で発売していたことも支持された。メディアにCD-ROMを採用したことでROMカートリッジに比べてソフトの価格を大きく下げることに成功した。従来の初心会中心の任天堂主導のゲーム流通にも斬り込んで流通改革も試み、任天堂流通に不満を持ちコンビニエンスストアでゲーム流通を行うためデジキューブを設立したスクウェアの取り込みにも繋がった。セガも同様に任天堂流通に不満を持っており、SS発売の際に独自の流通体制を整備することでSSを扱う小売店の数を拡大させたが、親会社のCD-ROM生産設備を利用できたSCEと異なり、CD-ROMの特性を生かした柔軟な生産調整を行うことはできなかった。1997年からセガはSCEの流通改革を模倣して小売店への直販化・直送化を推し進めていった。一方、スクウェア以外の有力ソフトメーカー各社もこの時代にゲームソフトの自主流通を行い始め、任天堂をはじめとして流通機構における各プラットフォームホルダーの支配力を削いでいった。
SFCで圧倒的シェアを持っていた任天堂は、PSやSSが登場した頃にはまだ後継機を出さず、1995年に据置き使用のゲーム玩具バーチャルボーイ(後述)を発売するにとどまった。これは「テレビゲーム機」ではなくゲームボーイと同様の「ゲーム玩具」類だったが、日本ではおおむねSFCの後継機までの「つなぎ」と受け止められ、当時の次世代ゲーム機競争の報道にしばしば名を連ねた。そしてSSやPSに遅れて2年後、1996年に64bit機[注 10]であるNINTENDO64 (N64) を発売した。N64はPSやSSより高性能で4人対戦が可能だった。SFC同様に単価が高く容量の少ないROMカートリッジを採用し、少数精鋭主義のセカンドパーティー構想を標榜していたが、これは結果的に前述のコンビニ流通のためCD-ROMの採用を望むスクウェアの離反を招き、ファミコンやSFCでキラーソフトだったドラゴンクエストシリーズとファイナルファンタジーシリーズがPSへ流出し、日本国内では伸び悩んだ。しかし、欧米では好調に売り上げを伸ばした。
1999年にはN64用の周辺機器64DDを発売させるが時すでに遅く、人気シリーズを移籍させた最終的にPSがトップシェアとなった。
参考文献(四号、顶格,加粗,不作为一级层次序列)
1.^ Access Accepted第404回:新世代のコンシューマゲーム機戦争
2.^ オトナファミ2011年1月号特別付録「家庭用ゲーム機完全図鑑-昭和編-」、エンターブレイン、p.8
3.^ “第1回:TVゲームグラフティー[1970年代日本編]”. ファミ通.com. 2015年12月23日閲覧。
4.^ a b c d e CLASSIC VIDEOGAME STATION ODYSSEY内開発者インタビューより。
5.^ 山崎功『家庭用ゲーム機コンプリートガイド』主婦の友インフォス情報社 2014年、p.24
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7.^ 月刊コロコロコミックNo.65(1983年9月号)、「最新テレビゲーム大研究」、pp187-191
8.^ a b 月刊コロコロコミックNo.67(1983年11月号)、「おもしろテレビゲームベスト20」、pp287-291
9.^ a b 月刊コロコロコミックNo.68(1983年12月号)、「2大テレビゲーム徹底チェック」、pp327-331
10.^ テレビゲームファーストジェネレーション 第2回:TVゲームグラフティー[〜1984年日本編] ファミ通.com 2012年12月14日
11.^ 高橋健二『任天堂商法の秘密』祥伝社、1986年、pp.16-18
12.^ 赤木哲平『セガvs.任天堂 マルチメディア・ウォーズのゆくえ』日本能率協会マネジメントセンター、1992年、p.115
13.^ “PlayStationStore「ゲームアーカイブス」カテゴリ内にて「PCエンジンアーカイブス」を、本日より取り扱い開始”. ソニー・コンピュータエンタテインメントジャパン ニュースリリース (2007年9月15日). 2012年9月21日閲覧。
14.^ 日経新聞1992年1月10日
15.^ PlayStationが成功したのは,バーチャファイターのおかげ――元祖“次世代ゲーム機戦争”の現場で,PlayStation事業の当事者達は何を考えていたのか。SCE創業メンバーが当時を振り返った「黒川塾(弐)」レポート 2017年1月17日閲覧